
常石 敬一「消えた細菌戦部隊—関東軍第731部隊」海鳴社
「1936年8月(昭和11年)、北野は著名な細菌学者戸田忠雄の後任として、満鉄が経営していた満州医大の教授に任命される。戸田は九州帝大の教授として転出していた。この同じ年の同じ月に石井部隊は皇軍として正式に発足している」(123頁)
わたしが今も使っている教科書「戸田細菌学」の戸田先生の名前がここで出てきたことに驚いた。
「北野および石井両名が同時に満州に赴任したのは偶然の一致ではなく、意図的なものであろうとする論拠は後で述べるが、その前にこの記事の持つ別の問題点を指摘しておきたい。それは昔も今も変わらずに存在する、医学会ひいては科学界と官界・体制との癒着の問題である。
もちろんこの記事は陸軍の軍医向けのものであるから、彼らの士気の高揚のためにある程度の誇張がなされている可能性もないわけではない。しかしそれを割り引いても、帝国大学や医科大学が何回かにわたって、何人かの軍医を教授として招請したいと申し入れた事実はあったのだろう。帝国大学医学部の教授のポストといえば、学閥等もからみ最も獲得が困難な椅子のひとつである。そのポストにわざわざ軍医を招請したいと申し出る理由は何だろう。
戦後石井部隊の解散後、何人かの旧部隊員は大学教授になっている。たとえば京都府立医大の教授になった人もいるし、昭和薬科大学の学長を務めた人もいる。その程度には有能だったのだろう。しかし、戦前の帝国大学の医学部教授に軍医が招請されたというのは、そのポストの重要性その他から見て、単純に有能だったからだろうとはいいきれないのである。」(125 頁)
「軍医を教授として招請したいと申し出ていた他の大学の動機が、陸軍とのこうした協力関係を持ちたいという希望であったろうことは容易に想像できるところである。しかしこの「癒着」は大学側にとってメリットがあるわけではない。軍にとっても優秀な人材を確保できるという利益があった。石井四郎などは、自分の部隊に有能な人間を集めるため、全国の大学をまわったという。」(126頁)
「敗戦の直後から、旧日本軍の細菌戦部隊の関係者が米軍と接触を保ち、そして協力していたことが、彼らが極東軍事裁判を免れた理由であろう。しかしまたこの協力こそ、朝鮮戦争の際の流行性出血熱を始めとするペストその他の流行病の原因は、米軍の細菌戦である、という北側の主張の根拠ともなっている。1951年12月5日、テレプレスの至急報は、「石井、若松、北野が必要な装備とともに朝鮮に送られた」と報じた。この至急報の確認はとれていない。しかし多分本当だろう。」(139頁)
「陸軍の軍医団全体としては東大出身者が主流を形成していた」
「北野は東大出身であり、石井部隊は京大・慶大出身者が主流を占めていた」(135頁)
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