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Regimental Hospital(連隊病院)

チャールズ・ジョンソンは戦後長い年月を経てこれを書いたけれども、陸軍の野戦病院の比較的少ない報告の中でも最良のものの一つである。ジョンソンは18歳の少年の時に入隊した、そして、西部で病院勤務を割り当てられた。彼はビックスバーグの包囲戦の時、グラントと共にあった。のちにBayou Teche国への遠征にも参加した。彼の報告は、戦争における医療業務の失敗を説明するのに役立っており、責任を軍医ではなく、当時の医学の状態に置いている。

戦場では連隊病院部門は軍医や医薬品などのための2つの小さなテント、炊事場と補給物品のためにもう一つ別のテント、そして病人のための大きなテントが与えられた。病人用のテントは、病院テントとして知られているが、約14フィート(4.3メートル)四方であり、8つの折り畳み式ベッドが患者と共に収容できた。
戦場で我々がシーツや白い枕カバーを持つことはまずなかったが、軍のブランケットを使ったが、それは想像できる最も粗末な繊維でできていた。暖かい季節には、テントの壁は引き上げられ、居住者により快適にした。
しかしながら、確立している方針は、すぐに回復しそうにない人達は基幹病院base hospitalに送られるということであった。これは患者の最高の利益になるとは限らないが。というのは、これらの大きな病院は何らかの感染症(とくに戦場の負傷者が罹ることがめったにない病院壊疽)の中心であるからだった。
軍事行動の間は、われわれの医薬品の在庫は必然的に標準的な医薬品に限られていた。名前を挙げると、アヘン、モルヒネ、ドーフル散、キニーネ、大黄、ロッシェル塩(訳注:酒石酸カリウムナトリウム。下剤、利尿剤として用いられる)、ヒマシ油、鉛糖、タンニン、硫酸銅、硫酸亜鉛、樟脳、アヘンチンキ、鉄チンキ、ローダナム、樟脳塩、海葱シロップ、単シロップ、アルコール、ウイスキー、ブランデー、ポートワイン、シェリーワイン、など。野営地に入った時、我々は大体2~3日滞在するのだが、これらの物品は開封され、箱と蓋で作った一時的な棚の上に置かれた。そして一方、進軍の命令が来たときは、医薬品は再び箱の中に梱包された。瓶は古紙などによって破損防止された。
実際、すべての医薬品は散剤または液剤として投与された。錠剤はまだ実用化されていなかった。丸薬は今日ほどの多い状態からは懸け離れていた。結局、ほとんどの散剤は水で混ぜられて、飲まれた。キニーネ、ドーフル散、タンニンのような薬剤は、用量は、このように調合された時、厳しいものであった。臭化物、スルフォナール、メチルスルフォナール、似たような睡眠剤や鎮静剤はまだ実用化されてなかった、アサフェティダ、バレリアン、アヘンとその誘導体は、南北戦争のほとんどすべての医師が神経症の回復と睡眠導入のために持っていた。
外科的な供給物品には、クロロフォルム、エーテル、ブランデー、芳香アンモニア精、包帯、絆創膏、縫合用絹糸などがあった。また、切断用両刃刀、動脈鉗子、骨鉗子、手術用メス、はさみ、弾丸探索器、止血帯などが十分供給された手足切断用ケースがあった。しかしすべての器具は水で洗浄され、錆びないように拭いて乾燥させたが、器具を無菌的asepticにするという考えは、最も先進的な外科医の頭に浮かぶことはけしてなかった
救急用ケースはおよそ兵士のナップザックの大きさで、実際係員の背中にナップザックのように背負って運ぶように意図されていた。この救急ケースの中には包帯、絆創膏、針、動脈鉗子、メス、アンモニア精、ブランデー、クロロフォルム、エーテルなどが入っていた。この救急ケース(あるいは病院ナップザック)は最前線が近づいてきたときは常に連隊と共に搬送された。そしてそこでは中軍医the First Assistant Surgeonが担当責任者であり、すべての負傷者に最初の救助を提供する用意があった。
しかしながら、最初の救助とは、出血を止め一時的な包帯をする以上のものはけしてなかった。こうした手当を受けて、負傷者は救急隊へ連れて行かれた。そして後方の野戦病院field hospitalへ搬送された。そこは通常マスケット銃の及ぶ範囲外ではあるが、砲弾や弾丸の届く範囲の越えてはいなかった。
より大きな野戦病院に着くと、患者は外科医や男性看護師によって介護された。創傷は調べられ、包帯が巻かれたが、けして無菌的にではなかった。というのは誰も消毒法antisepsisの重要性を知らない、あるいはその実践の仕方が分からないからである結果としてすべての創部は化膿した。そして、いわゆる立派な膿は、患者が回復するときに通過せねばならない里程標の一つに到達した兆候として、担当の人たちから歓迎された。手術の前や最近の創部に包帯するときに、注意深い手洗いや爪の洗浄はけして実践されなかった。それでも、ほとんどの場合創傷は最後には十分治癒した。患者を受けとる担当者たちはほとんどの場合、元気な若者であるという事実は、良い結果と非常に関係があった。ここで次のように言うことは適切かもしれない、すなわち、南北戦争では創傷の大部分がミニエー弾と呼ばれたものからの弾丸でできた。これらはほとんどの場合、シングルシューターかマズルローダー銃(スプリングフィールド・ライフル・マスケット銃、エンフィールド・ライフル・マスケット銃、オーストリア・ライフル・マスケット銃のような)より発射された。これらの弾丸は1オンス(28.3g)かそれ以上の重さがある。そして、その弾丸を発射する銃は1マイル以上離れて一人の人間を殺傷するであろう、そしてそれらが大きく、醜い傷を作ることは言うまでもない。
ミニエー弾が骨に当たった時、隣接した骨の構造を破砕し粉砕することはまず間違いなかった。弾丸サイズの丸い穿孔を作るだけというのは稀であった。関節が弾丸が当たった部位であるときは、その結果は南北戦争の時はとくに深刻であった。もちろん、お腹や頭の傷についても同じであった、より重症であるが。じじつ、お腹や頭の傷から生還することはまずなかった。南北戦争にける外科医の最重要課題の一つは、ミサイル(飛び道具)を摘出することであった。これをするとき、外科医は汚い手と器具で傷口を感染させることに失敗することはまずなかった。
私の隊のウィリアム・M・コルビー大尉が最前線からわれわれの師団病院に運ばれて来たとき、彼は後頭骨上部から脳を貫通した弾丸のために昏睡状態であった。われわれの軍医が最初にやったことは、人差し指を傷の中へ指1本分入れて動かしたことであった。これは通常の手洗いさえなしで実行された。次に彼は汚い弾丸探子を挿入した。患者は1日か2日で死んだ。これら一連の事実は無菌法asepsisや消毒法antisepsisの知識の欠如のために南北戦争時の外科がその下にあった、恐るべき障害を示していることを物語っていた。言うまでもなく、外科医に対してなされるべき非難は意図されなかった。というのは彼は当時の最良の知識を利用していたのである。これらのいくつかは危険なものであったが...
弾丸による傷は他のすべての原因による傷の5倍頻度が多いと私は思う。砲弾による傷はその次に多かった。ブドウ弾と散弾によるものがさらにその次に来た。私は銃剣で一突きされた傷は見たことがなかった。しかし敵の手にある剣によって作られたものを見たことはある。もう一つの章で、大腿上部に深い傷を負い、数日後に致命的となった一人の男性について言及がされている。傷を受けてまもなく、その部分は緑色になり始め、そして濃い色合いになった。死後その部分が切り落とされたとき、爆発した砲弾からの銅栓は、患者に致命的な傷を負わせた醜いミサイルであることがわかった。
多くの人々が一緒に群れをなしている所では、重症度の違いはあれ、事故が起きやすい。しかしながら、われわれの部隊は全体としては幸運であった。2~3名が溺死し、蒸気船の爆発で一人が亡くなった。しかし、私は事故で銃創を負った3名を思い出す。一人は小さな口径の拳銃発射であった。他は充填されてないはずのスプリングフィールド銃の一つからのものであった。しかし、思い起こすと、われわれのこの方面の記録は、非常に多くの充填された銃を非常に長い間取り扱っていたことを考慮すると、とりわけ幸運であったと私には思われる。
連隊の唯一の軽乗用車は、われわれの病院救急車−バネの上のベッドを持ち、強い生地で覆われた四輪車−であった。後尾の門扉は、重病あるいは重症患者を載せたり降ろしたりするのに便利なように、蝶番でその低部が開いた。われわれの病院救急車の運転手は、スロングモートンという名前の兵士だった。彼は彼の仕事を知り、それに従事した。彼は熟練した騎兵であった。彼は一対の鹿毛の馬の世話をし、きちんと手入れされ、どんな場合でも適切に勤めさせた。それらはかなり元気で、呼び出しがあった時は足取りが良かった。さらに病人やケガ人を搬送するときにはその目的を果たし、我々の救急隊は家族馬車の一種として有用であることを証明した。われわれの数名の元気な者があちこちに取られるときに。
病院勤務者の仕事については、看護師、調理人、救急運転手などのいくつかの定員で仕事をするために、連隊から詳述された。この種の仕事は“特殊業務”として知られており、少なからずの人が来て、従事した。とりわけ、病人を新たに介護することに少しの適性のない人たち、彼らの幾人かは病気に対するほんの少しの洞察力を開発し、まあまあの診断と予測をしばしばなすことができたことは真実である。

引用元:http://www.civilwarhome.com/regimentalhospital.html

2015.6.14作成